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2019年6月の記事一覧

レポート

常例仏教講座 横内教順師

「わたしたちの頑張り、努力、はからい、年齢、生き方、死に方、何ひとつ条件とすることなく、がんばった人も、がんばることができなかった人も、同じく、等しく、必ず救われてゆく道がある。」

 

ある時、一般企業で働く友人から、「それは不平等だね。がんばった人がいい場所へ行き、がんばらなかった人はそれなりの場所に行く、そちらのほうが公平で平等じゃないか?」と言われたことがありました。なるほどそういう考え方もあるのかと、ある意味、目から鱗が落ちるような気がしました。それが現代の考え方、物差しかもしれません。

たしかに、元気な時はいいかもしれない。より良い生き方をする、より良い時間を過ごす、より良い習慣を身に着ける、より良い自分になる。そのために、がんばる。それでいいと思う。

 

でもそれは、がんばれない人にとって、つらくないですか?

 

私が京都で勉強をしているとき、ある先生がこうおっしゃいました。
「もし目の前で、今まさに命を終えてゆく人に、こう生きたら良いですよ、こう頑張ればより良く生きられますよ、という話をして、その人は本当に安心できるのですか?」

その先生の言葉は、当時、もっと仏教も現代人に通用するような、人生や仕事に役立つような説き方をしなければならないと思っていた私の考えを大きく揺さぶりました。

「もう一歩も歩くことができないくらいつらい思い、悲しい思いを抱えている時に、今いのち終えてゆくこの時に、慶ぶことができない話はウソなのかもしれないな。

自分が元気で、立派で、賢い時には役に立っても、本当にしんどい、つらい、悲しい、苦しい時、その時に慶べないのであれば、それは本物ではないのかもしれないな」と。